
ちょっと興味があって「ヒマラヤ聖者の生活探究」の後、「解脱の真理」を読んでみた。
気になった部分、書き出しました。
M・マクドナルド・ベイン著
解脱の真理 ヒマラヤ大師の教え
〜第九章 神秘の交霊会〜 より一部抜粋
イエスを自分達や神とは断絶した存在であるとみなす人々にとっては、イエスは外的な介在者と思えたのであるが、しかしこれは彼らが彼ら自身の真実の父なる神を知らなかったからであり、従ってイエスの真実の父なる神を知らなかったからである。もしも彼らがイエスの父なる神が同時にまた自分達の父なる神であることを知っていたならば彼らは解脱し、無礙自在となったであろう。イエスは、自分一人の力では無(ゼロ)であるが、父なる神にとっては一切が可能であるといわれた。
イエスは、君や私のものでもある大生命から離れうるものではないことを知っておられた。そのゆえにイエスは宇宙大生命を通して働き給うのであり、その宇宙大生命はまた各人一人一人を通して働き給うのである。君もまたかくのごとき業をなすことを学ばねばならない。
この神力を実現することは順応や分離〔神と人、人と人との〕観の虜になっている人々にとっては困難ではあるが、この神力を実際に体験した人々はそれが実在する確証を持っている。
私が君に対して神の遍在について語る時、私の言葉が相対的であるために私が何かしら私自身とは別のものについて語っているように見えようが、しかし実はそうではないのである。私としては、このような相対的な言葉を以て君の内なる実相を君が見出すお手伝いをなし得るのみである。
君はもうすでに相対的なものについて学んできたので私のいわんとするところの真意はよく解っているはずだと思う。イエス大師は『あなた達は私が父なる神の内にあり、また父なる神は私の中にあることを知らないのか』といわれた。これは、神の意識の中においては神人一体であり、神が全ての人々に神の子となる力を与え給うたことを了解した人の裡において、神の意識は創造力を発揮し給うことをお示しになるためだったのである。『私の目にうつる神のなし給う業は私もまた等しくなすのである』。
さて、病気がたいていはある原因(複数)の結果であり、自然の法則をないがしろにしたためであることは諸君もよく知っていることであり、それは無智、恐怖、愛の欠除すなわち愛を与える力の欠如、常に愛を求めてやまない小我に対する理解の欠除等から出てくるのである。病は、肉体と心とがその本来のリズムを失ってしまっていることを現す徴候であり、同時にまた、本来のリズムを取り戻そうとする苦闘が病である。言い換えれば、もしも君が自然の法則をないがしろにし、同時に『安らぎを失って』苦闘し続けるならば、心の注意は症状に集中されるようになる。なぜならば、肉体は〔神経を通じて〕その症状を心に告げ、心は肉体の感じているものの虜になってしまうからである。すると心は肉体を救おうとして一所懸命苦闘することになる。肉体の原子を掻き乱し、あげくの果てに苦痛や不快をもたらすのはこの苦闘なのである。以上の真理が解って初めて苦闘はやむ。
心は肉体の感じを意識し、この感じがある病気として心に記録され、それに病名がつくと心はその病名に捉われ、それが不治の病ということにでもなると心はそれを鵜呑みにしてしまい、かくして重荷を一層ふやしてしまう。しかし実はその原因が自分の実相(神我)に関する無智と自然の法則の無視とに因由することを悟って始めて重荷はおり大生命たる大霊が心を変性し、かくして肉体は自然の完全なる働きに応ずるようになるのである。」
「人間は肉体に異常があると病気だと自覚せざるを得ないと思いますが?」と私がいうと、聖人はこう答えられた。
「その通り。肉体の細胞間にある分裂があるとそれが脳の中枢(複数)に伝えられる。すると心の中の現在意識がそれを不健康ということにしてしまう。
もともと大霊〔実相〕の完全なる力を悟っていないので、そこへ恐怖や不安がはいり込んでしまうのである。しかし実相の真理を心が受け容れると脳中枢にそれが伝わり、かくして肉体細胞の再建が始まる。しかし心が何とかしようとする苦闘の虜になってしまうと第一防衛戦、すなわち聖なる理性を用いることができなくなり、結局肉体細胞の不調というしらせを最後の宣告と思いこんでしまう。しかし、自分の実相に関する真理を悟れば本当の治癒が起こる。心がこの真理によっていわば強く充電されると、完全にして瞬間的な変貌が起る。これがすなわち神癒である。」
私は師のいわれることに夢中になって聞き入り、周囲の出来事には一切注意が向かなかった。師はひき続き語り続けられる。
「実は病気の場合何が起るのかというと、自分の実相に関する真理〔絶対、完全円満な真我〕についての自覚が心から姿を消し、不健康意識が心を支配してしまい、快活さが失われ、活力感がなくなってしまったのである。ではこれまで肉体を支えていた心にはいかなる運命がふりかかってきたのだろうか。病が実在するという迷いの魔力のもとにひれ伏してしまい心から真理が一時的に去ってしまい、心が大霊〔実相・神我〕の宗主権〔統治・支配する権力〕に関するその知識を不調・混乱という勢力に明け渡してしまったのである。」更にまた、
「私はこれまで心がその折角の主権を放棄するのを現に観てきた者としてこの話をしているのである」と一応つけ加えられてからまた話を続けられた。
「さて、恢復の最後の手段として薬剤に訴える者がいるが、それでも求める恢復がやってこないため、病状を一層深刻に受け容れてしまう。処がまた、何かの方法で化学的変化が起きると一応快方に向かい、その結果薬剤の力を迷信することになる。しかし症状が戻ると迷信していただけに混乱が益々ひどくなり、薬剤が結局何の頼りにもならぬことに気付くと、こんどは失望・落胆と不安とが一層深まって行く。
肉体が科学的反作用のみの組合せではないことを諸君はよくよく知らなければならない。肉体には智慧、技能、肉体の営みを維持する驚くべき機構が備わっているのであり、これこそ大生命の活力であり、この大生命の活力が肉体の運動や変質をもたらす基本なのである。
薬草や生化学、同種療法、水治療法のような自然療法は多くの場合細胞構造に働きかけて化学反応をもたらし、強力な暗示となりこの暗示に従って心が動かされるようになる。心に及ぼすこのような作用がやがて健康意識と体内における均衡と調和との回復を再生し始めるようになる。しかしながら、心が内在する先天的な大霊の力の法則を把握しないままにこの状態だけに放置されるならば、次にきたる第二の状態は最初の状態よりも更に悪くなる恐れがある。
病気の虜になるのは自我なのである。病気というものを知っているものは自我だけなのである。神霊は病気なるものについては何らの知る処もないのである。利己的、取り込み一方、貧欲、憎しみ、敵対、不寛容、乱暴なのは自我であり、これこそが大方の病の原因である。
非人格的、不偏の大霊はこれらの不徳について何ら知ることはない。従って不偏、非人格的であることが神癒なのである。非人格的になればなる程君は愛深く親切となる。なぜならば、非人格的なるものが愛であり、愛こそは癒しであるからである。愛は神であり、神は愛であり、且つおよそ反作用を伴わざるあらゆる完全なる作用の基盤である。
個我が外なるもの、争い、内外の戦いに常に捉われていることが解れば、その時こそ君は苦悩の原因を把握したことになる。そしてそのことを把握した時、非人格的内なる吾が解脱し、かくて大生命のもろもろの力という放射能が放射され、もろもろの自然力というこれらの電磁波が心と肉体とを変質し始める。
この内なる原子作用が潜在意識機構に対して強烈なる暗示を生み出す。するとこの潜在意識機構は瞬間的に全心身にわたり隈なく行動を開始して、強力なエネルギーの流れを正しい方向に移動させ、その向かうところ全てのものを内から外へ掃き出し、そこにあった混乱を鎮める。
この混乱がおさまるのに応じて病気という観念を放ち棄てなければならない。そうすることによって平安が確立された時、肉体の訴えが止み、かくして調和が確立されるのである。
かく学びかく知ることによって再び調和が確立されると、心と肉体とは、病の性質や慢性状態の継続期間のいかんによらず、変性する。
真理による指導によって、患者は苦悩が一時的であり人工のものであること、およびなんであれ一時的なものはすべて流動しそれ自身の根拠など何ら持ち合わせていないこと、を悟り始める。外なるものに捉われるのは無智なる自我である。実在〔実相・神我〕はこの無智なる自我には似ても似つかぬものである。実在〔実相・神我〕こそ完全無欠の非人格的吾なのである。もしも病が実在ならばそれを癒すことはできない。なぜなら実在は変化するものではないからである。自我は恐怖を抱いている人々から発する暗示によって恐怖の中に引きずり込まれる。死への恐怖が人類という家族に巣食う多くの苦悩の原因である。ゆえにこの恐怖をとりのぞくことこそ一番大事なことである。」
師は更に強調していわく。
「この生ける宇宙には一分子といえども死せるものはないことをよくよく把握してもらいたい。大生命に死せる部分など一カ所といえどもありえないのである。生と死の間とには何らの差異もない。今や君の見るがごとく、両者は一にして不二である。死とは久遠の生命の中における一局面より他の局面への移りかわりにすぎない。
「生命はより完全なる住家〔霊体その他の精妙な体〕の中で存在し続け、個生命の意識は更に拡大・深化する。ゆえに諸君は心の中から死に対する恐怖を排除して久遠生命という意識を確立しなければならない。これこそが心身の治癒に対する最大の助けである。なぜならば、恐怖という意識は心身の機能に対し破壊的であるが、生命という意識は心身の適正なる機能を更新するからである。聖言にいわく、『地上のいかなる人間をも汝の父と呼ぶなかれ、故如何んとなれば久遠なるものこそ汝の実父なればなり。』
心身の完全なる治癒は病と死とに対する恐怖が消滅した時のみなされ得る。君は他を助ける場合、まずおのれ自信を知らなければならない。最も鈍い心といえども、真理の光を受けた意識はその中に浸透することができるのである。」
師は強調し給う。「マントゥラは恐怖にみちた心にとっては大した助けにはならない。なぜなら、それは心を支配している苦悩という観念をかえって強化するからである。こうして諸君は対立するもの(複数)を作り出していくだけである。すなわち健康という観念をもちながら実は不健康と戦い、生命という観念をもちながら実は死と戦い、善という観念をもちながら悪と戦い、かくてきわまる所がない。
「しかし悟りによる巧みな智恵あるコトバを以てすれば、患者は真理を受け容れ、喜んで協力するようになり、かくして変化が起こり始める。時としては変化が瞬間的に行われる場合もある。実在〔実相〕という真理の力が電磁波の波動を発生せしめ、この波動が患者の心に到達すると、それまで彼を縛っていた消極的な精神状態が打ち破られてしまう。この方法によって、近い処からでも遠く離れた処からでも患者の心に到達することができる。その瞬間に僕(しもべ)はいやされたのである。
『娘よ心晴れやかにてあれ、汝の信仰汝をいやせり。』これらの聖言は諸君にとってはお馴染みのものであるが、今こそその真実の意味を悟がよい。」
しばらく間をおいてから師はまた話し続けられた。
「自分の実相に関する真理を知ることによってオーラが清まり、想念は強力となる。然る時、大自然の中にあるもので諸君を害するものは一つもなくなり、また君も自然のあらゆるものに対して害を及ぼすことはしなくなることを知るがよい。君が自然を怖れなくなった時君はありのままの自然を支配することができる。なぜならば君はありとしあらゆるものに対する力と主権とをすでに与えられているからである。本来、自我はないことを徹見し自分が無(ゼロ)であることを悟がよい。然る時君は謙虚となり、宇宙霊がその御業をなし給うチャンネルとなるであろう。我というブレーキを外せよ、さすれば後のことは神がなし給う。
悟りの反対の恐怖を通じてではなく、悟り、すなわちよく知り尽くすこと、によって信念を得るがよい。恐怖から生じたものは信念となることはなく、かえって恐怖と信念という対立物の虜になってしまう。
喜んで傾聴するという心構えを涵養することである。心の重荷を捨てることは病人にとって大きな助けとなる。大霊〔実相・神我〕が病や死、善や悪、成功や失敗によって何ら影響を受けるものではないことを知り、人格的、人間的なものを越えて徹見することにより、非人格的、超人間的になるがよい。
君は病人をいやす前にまず第一に自分自身をいやすべきことを忘れてはならない。
すなわち自分の心から一切の妨害分子を除き去ることである。そうすることによって聖なる力は何ら妨げを受けることなしに働くのである。愛と英智との霊化力によって一切を変性するがよい。妨害する働きを持つものは全てゲリラのようなもので心のかたすみにかくれ、仲間のくるのを待ち構え、その数が増えると夢にも疑わぬ本人に襲いかかり叩きのめすものであることを銘記するがよい。
この類のものは無知のなかに蔓延るものであり、その治療法は悟得である。ゆえに君自身の悟得という強力なる霊光によって病人の意識を霊化せよ、しかる時彼の灯火に明かりがともり、もっとも暗き隅においてまず光り、かくして永遠に弱ることなき光によって全心身が点火されるのは必定である。
今や個人病むがゆえに世界また病む。混迷と無智とこそがその原因である。この二つの詐欺師を除いた時、人は、創造主に似せて作られたままのあらゆる栄光に輝いた神人として変貌するであろう。
君の前にある任務は一見大きすぎもしようが、吾々の愛のラジオ波は君の赴く所常に君と偕にあるであろう。君にはゆっくりしている暇がない。ここでの修行がすみ次第君の熟知している世界に戻るがよい。神なるキリストの全能なるオーラが君を覆い包まんことを祈る。」
以上 霞ヶ関書房、仲里誠吉訳 p270〜p280
p358より
「その通り。君の云ったことはみな本当だ。しかし実在〔神・真我〕はニセモノ〔迷妄〕の結果、即ち、ニセモノ〔迷妄〕を廃除した結果では決してない。実在〔神・神我〕は実に今この瞬間実存しているのであり、ニセモノ〔迷妄〕から出てくるのではない。元々ニセモノ〔迷妄〕には何らの基礎もない。それは架空のものであり、自我が勝手に作り上げた妄想である。
いいかね、息子よ。信仰というものは心の一過程であり、既知のものから生まれる。君が『神は知られざるものである』というだけならば、君は『知られざるもの』という一つの観念を作り出したことになる。しかし君が心で作り上げたその知られざるものは『知られざるものそのもの』、即ち、『創造するもの』即ち又、『真実在なるもの』自体ではないのである。
富を蓄積するもの、寺院を建立するもの、宗教を組織化するもの、僧正・枢機卿・説教師達はもちろん、爆弾を落とすもの達までが、神は自分達の友であると云っている。彼らのこのような信仰のあり方こそ自我拡大の一形式にすぎない。それはおのれ自身の自惚れにすぎない。自らもって宗教と称している特定の様式に自分の心を限定してしまった人々は、愛と慈しみである究極の実在を顕現することはできないのである。」
この手の書物、だいぶ前にまとめ買いして、少しずつ読み出してはいるだけれど、調べたらネットで閲覧ができる。
「Bolivi-のホームページ」内の「文学に観る真理」にこの「解脱の真理」ももちろん、それ以外の書物も掲載されている。買わなくても読めるんですね^^
包茎ガリガリ体系で29年間童貞でギャルゲー三昧だった俺。。。
ちょっと勇気出してコレやってみたら楽勝でセクれたわ(^^;
こないだの子は俺のアバラ骨で素股して潮ピュッピュ吹いてたしwww
ワロタけどアバラ骨も使いようによっては武器になるんだなぁwwww
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